ロシア連邦 サハリン島(樺太)とは
- 2008年1月19日(土) 14:03 JST
- 投稿者: tetujin60
- 表示回数 12,698
2024年12月22日(日) 11:59 JST
ユジノサハリンスクの駅前広場の夜
ユジノサハリンスクの駅前広場の朝
雪国のスライドショー
宿泊先のユーラシアホテル
駅前広場の朝と夜
ティモフスクの空港
千歳のサハリン航空のカウンター
雪の公園を散歩する小鉄
雪の公園のベンチに佇むアベック
雷鳥の剥製
館内を見学する小鉄
かっては国境に置かれていた日本国の石碑
館内に展示されているアイヌの衣装
クマの剥製と筆者
サハリン州立郷土誌博物館
日本時代は樺太庁博物館
街の壁のモザイク
ユジノ・サハリンスクの駅前前広場
ロシアとサハリン島旗
札幌からは僅か一時間
サハリン航空もプロペラ機か
らボーイングになった
テェックインも済まし通関手続きで
一時間も待たされたあげく
本日「機体不整備」に付き欠航
今回のサハリン島の旅は小久保壮(東京38)さん
アラスカの知人の紹介で冬のサハリン島の旅へ…。
何で又冬に?…と首を傾げていた理由が分かった。
世界の極地旅行の経験者であり,
極地取材のサポートをして15年
チョモランマ(8848m)へ登山
第41次南極観測隊調査チームにも
参加している強い味方と一緒だ
彼の次の計画はは冬のサハリンの1100kmを走破である
こんな冒険家と一緒じゃ体が持つかいな!
係員の対応の悪さにクレームをつけたが
多数の乗客の意見でもあり
夕食と朝食を希望した条件は
全て了解されたが機内食の
「サンドィッチ」を夕食に配られた。
しょぼくれた部屋で朝を迎える。
島の北端から南端までの天然ガスの輸送工事は
約三分の一が出来上がっているのも
この目で確かめた
天然ガスの液化事業が進み
日本の大手商社も数多く進出している
町は毛皮のコートのファションショ-
雪道でもハイヒールのブーツに毛皮の帽子
スタイルも良く美人が多い
見とれていると雪道に足が取られそう
当時,国境に置かれていた石碑は
郷土史博物館に静かに展示され,ている
町外れにある共同墓地には
日本人や朝鮮人が眠っている
地下資源が確認されてからは
目覚しい開発が進み物価と貨幣価値が上昇
モスクワから9000kmも離れている
サハリン(1875年)は“最果て”の
島として
囚人流刑の地獄の島であった
州都ユジノ・サハリンスクは
日露戦争(1905年)の結果
北緯50度以南は日本国「豊原」となり
樺太庁が置かれていた
1945年8月ソ連が対日参戦し
南樺太はソ連に併合された
日本の最北端宗谷岬から50km
晴れた日には肉眼でも島が見える
数百年前より日本人とロシア人の
両国民が暮らしていた
私の父親が世界大戦中に樺太に
駐留していたこともあり
,一度は訪れたいと思っていた
現在ではロシア領土となっているが
当時は樺太と呼ばれていた日本の島。
地球の島めぐりの50島目の
記念の島として訪れた
やっと一日遅れでサハリン空港へ到着
小鉄と共にマイナス30度までの
防寒靴を着用しているので
マイナス5度ではたいした事はおまへん
最初はサハリンの旅だけは不参加と
渋っていた女房を何とか口説き落としての同行
女性はトイレ事情の悪いところは特に敬遠する
現地のトイレ事情はそう悪くはないが
外出先では雪を掘ってのインスタントトイレを使用
空港からは30分で無事
ホテル「ユーラシア」へとチェックイン
プロローグ
ティモフスク駅構内
暗闇の中ジープに荷物を積み込む
ニコライ氏の愛犬
迎えのソ連製ジープ「ガズー(1953型)
停車は30分
ティモフスク駅に到着午前7時
ユジノ・サハリンクスの果物屋
夜の景色
寝台列車で読書にふける小久保さん
寝台列車で音楽を聴く筆者
寝台列車でほっとひと息
寝台列車の棚
日本の機関車 D-51
夜行列車の切符
ユジノ・サハリン駅
下り1号 ノグリキ行き夜行列車
汽車のスライドショー
到着駅の一時間前には車掌が各コンパートを
ノックして知らせてくれるので安心して休める
午前1時,夜中のトイレは
閉錠されているのも知らず
ノックを重ねる
車掌もなかなか起きてくれない
もう辛抱堪らずデッキに置いてあった
石炭を運ぶバケツに失礼した
「エライスンマヘン」
「シッコウ猶予」で頼みます
車内は禁酒禁煙だが持ち込んだ愛用の焼酎を
「グビリ」とラッパ飲み
「飲まなきゃ寝られまへん」
今度は小腹が空いてきた
朝食用に買っておいた「リンゴ」を
袋から取り出し,真夜中に
音を立てないようにカブリついた
-翌朝は皆が知っていた-
「ガタン・ゴトン」と発車の合図も無く出発
車内販売は唯一コーヒーと紅茶
ロシア語でチャイ(10p 45円)をご馳走になる
ほっと一息ついた頃,睡魔が襲ってきた
深夜は外気が入り肩の当たりが冷え込んでくる
「寒い…」と目が覚める
防寒ズボンを肩に巻きつけた
車内は暖房が強すぎる
汗が滴り落ち防寒衣も全て脱ぎ捨てる
下着は汗でびっしょり,身体はグッタリ
夜汽車のロマンチィックな旅どころか
熱気に曇るガラス越しにやっと席に落ち着く
石炭の煙を吐き粉雪が舞い散る夜行列車
カメラを向けると警備員が手の平で静止される
「なんでやねん」
まだまだソ連時代の名残りか空港も駅も撮影禁止
同行の小久保君が小用があるので
先に言ってくれと
指定された1号車に向かう
パスポートと乗車券を美人の車掌に渡したが
反対の方向を指さしている
最後部の12号車の間違いらしい
「こらぁエライコッチャ」
薄暗い凍るプラットホームを12号車へ急ぐ
急な乗降口,満身の力を込めて
二つのカバンを押し上げる
気温はマイナス10度
サハリン:東部本線、北部横断線、
下り1号20:40発北のノグリキ行き
ティモフスク到着は翌朝07:21分
夜行列車に乗るのは40数年振りだ
小鉄も中学の修学旅行以来だと
懐かしい思いで深い夜汽車の旅となる
ホテルの隣がユジノ・サハリンクス駅で
大助かりだが
乗車券は全てロシア語で書かれているので
名前や座席・車両などさっぱり解らない
定刻通り到着
午前7時と言えどもまだ暗闇の中
ホームらしき所に身も知らない人が
カバンを運んでくれる
ガイド兼ドライバーの
ニコライ氏〔58〕さんである
降りしきる雪の中,
迎えのソ連製ジープ〔1953年型〕で
ニコライ宅へ向かう
夜行列車でティモフスクへ
(492km・下り1号)
寝袋で寝る筆者
小久保氏
ニコライ宅の道路の整備
ニコライ・小鉄・奥さんのガリーナ・筆者
ニコライ宅のトイレは庭の奥にある
町は毛皮のファションショー
ハンティングの練習をする筆者
筆者とニコライ・野犬の毛皮はとても暖かい
今夜の夕食
ブルーベリー夏の分を年中保存
鴨とジャガイモのスープ「シェルパ」
ニコライの奥さんガリーナさん
サハリンのビール
サウナ上りにウオッカをストレートで・・・
ニコライ宅のサウナ・熱湯と水を混ぜて頭から被る
ニコライ宅
さぁ!引き返すか?
トラクターの運転手が除雪作業の終わりを告げる
素晴らしい雪景色
この先どうするかドライバー同士が話し合う
除雪車は日本車
時々車から下車してワイパーなどのテェック
ニコライ宅
愛車の運転席
ニコライの家の近く
クリックするとスライドショー
ティモフスクから
ロシア美人は背が高く腰が締まり色白である
その上ミンクの毛皮が良く似合う
雪国の足元はハイヒールに皮のブーツ
毛皮の「ファッションショー」を
ボーと見とれて鼻の下が伸びる
飲むほどに小久保さんのトイレの回数が増える
30m先の掘っ立て小屋の
トイレ「入口には5ルーブル」と張り紙
孫がジョ-クで書いたとか…
「鴨の味はどう?」私は笑って
少し首をかしげた
ロシア料理は全般に油濃い料理が多い
ご飯の上にもバターを落として
食べる週間がある
この寒さじゃ当然の食生活だ
ダイエットなんて考えていたら
生きていけまへんで…
汗を流した後に飲むサハリンビールの味
喉を擦って胃袋へと滑る落ちる
暫く目を瞑って「ハラショ」
(ロシア語でよい)
ロシアビールには度の強い
ビールがあるのも忘れ
調子を上げ過ぎた もう顔は真っ赤…
夜汽車の疲れも手伝い
ほろ酔い加減のサハリンの夜
今夜のロシア料理は「シュルパ」
(鴨とジャガイモのスープ)
サハリン産のウオッカと度の強いビール
夕食前には手作りのサウナも出来上がった
5~6人は入れる「なかなかのサウナ」
雪の中のサウナは初めての体験
足湯にすると汗の出も早い
熱湯と水とで敵温水を作り頭から浴びる
「う~ん!気持ちがいい」熱くなったら
雪の中で身体を冷やす「今夜は最高」
旅はハプニングがいい
ホカホカと身体の芯から温もり
シャツ一枚で小鉄と交代
湯上りの小鉄はピカピカのホッペが光っている
今夜のご馳走は「サウナ」に勝るものはなし
二つ返事で今夜はニコライ宅を提案
「サウナは好きか?」もちろん大好き
引き返す悪路は気にならなかった
今夜はウオッカとサハリンビールで
“乾杯”といくか
何度目かで奥さんのガリーナさん(55)と
携帯電話が通じ,急な来客を告げた
サハリンでの携帯電話の普及率はまだまだ……
申し分のない天候だが積雪は1m以上ある
除雪車と行き交うが車体には
「KOMATU」とこれまた日本製
これ以上先へ進むのは無理と
他の車の運転手たちと相談しているところへ
除雪作業はここでストップと冷たい通告
私は内心ホッとした
これ以上は腰が持つかと案じていた
雪道は意外とクッションが悪い
時々ガタンと腰に来る
外はマイナス15度 降りしきる雪にワイパーも氷結
時々車を止めてワイパーの手入れが必要
自慢の「ガズー69型」のジープは
1953年のソ連製,そのエンジンは強い
「エッ!エンジンは日本製」
修理は全て自分でやってしまう
日本性のエンジンである事に愛車を自慢
10月から5月までは雪の道路
2日前は猛吹雪であった…と心配そう
NPO法人EWS(東京)の協力で集めた古着を
ニコライ氏のジープで
ティモフスクからビアトフ村まで
雪道を160km(約6時間)運ぶ
少数民族の「エベンキ」「ニブヒ」の
民家と公共の建物以外は何もない
待っているのは氷結した「間宮海峡」ぐらい…
小久保さんは2003年の12月に
一人でこの間宮海峡横断(100km)を走破。
「貴方たちは寒いのが好きか?」
ニコライ氏は「次は夏に来て下さい」と
早口のロシア語で捲し立てる
幻のビアフトゥ村へ
鉄道歴史スライドショー
ここをクリックすると芸術学校の
スライドショーが始まります
州立博物館を見学する園児たち
戦車や戦闘機まで展示されている
州立郷土史博物館の内部に展示されている
ナターシャさんと小久保さん
豚の頭もも売っている
ビッフェスタイルのレストラン
スーパーの店内は撮影禁止
キューリ魚の空揚げ
小さな店ではそろばんで計算する
イクラの塩漬け
キューリ魚
ピロシキ
焼きソバ
日本料理店の刺身
乳酸飲料を売る店
新しく出来たスーパー
ユジノサハリンスクの駅前
駅前の露天商
トラックの野菜屋さん
露天でピロシキを売る
乳母スキー
私が名付けた 乳母スキー
教 会
落書きを見る小鉄
ユジノサハリンのロシア正教会
この町は日本時代には「豊原」と名付けられ
札幌を模して作られている
町並みは東西に整然としている
「どこかで見た町やなぁ」と
思っていたらやっぱり札幌か…。
日本時代の建物は
州立郷土史博物館となり当時を伝えている
ご主人のセルゲイさん(52)はロシア人
樺太時代の日本食器の収集家でもあり
「続縄文時代の考古学者」
その長女の「ナターシャ」さんと
ユジノ・サハリンスクの
日本料理店で夕食を共にした
頭の良い「ナターシャ」さん(27)は
日本留学を夢見ている
日本人の血が流れていると思えば
他人とは思えない親しみを感じる
スべーターさんはサハリン生まれのサハリン育ち
父母は日本人でありながら日本語は全く解らない
10人兄弟で育ち2年に一回,函館に里帰り
稚内、札幌、東京へ、2年に一度
サハリン在住の日本人の方々も里帰り
日本から持ち帰った自慢の炊飯器,米は韓国産
その味は少し芯がありコツコツとしている
洗い置きを教えてあげるととても喜んで
日本の風習に興味を示す
冬場の魚は「キューリ魚」
ししゃものデカイヤツで
卵もしっかり入っている
ティモフスクの
「スベーター」さん(47)家で
揚げ焼きしたものを頂いた。
キュウリの匂いが微かにする
身はしっかり脂が乗って旨い
その上卵もたっぷり入っている
何処へ行っても旬のものは旨い
サハリンの日本商社で働く和島さん(青森)は
2年半もサハリン在住である
寒い冬の楽しみは「日本料理」と「ウオッカ」
夏場は釣りが盛んで幻の鮭「いとう」が入れ食い状態
ロシア人も釣り好きが多いとか……
9月には安くて美味い「イクラ」が食べ放題
旬を過ぎたら塩漬けとなり値段も跳ね上がる
「イクラ」がロシア語とは知りまへんでした
町は車で溢れ日本車も人気が高い
市民の唯一の足は小型の乗り合いバスである
何処へ行っても長い列がランダムに並ぶ
露天商も新しいスーパーに
様変わり整理されていく
物価の上昇は生活を脅かすと
ロシア人は嘆いている
急ピッチで開発されるサハリンの州都
天然ガスの液化開発もまもなく実現する
日本人居住者も100名を越え
大手商社や銀行などの進出が目立つ
日本料理店は4軒もあり
ロシア人ウエイトレスが
着慣れない着物に身を包んでいる
味はまぁまぁだが値段が高い
ラーメン一杯が1200円もする
特に印象に残ったのは日ソ国境の石碑,
北緯50度に置かれていたものが
今は博物館に眠っている
アイヌやロシアの少数民族の
生活用品が数多く展示されている
終戦前後の時代を生きた私としては
複雑な心境が頭を過ぎる
クリックするとスライドショウ
ユジノ・サハリンスク
日本名(豊原)
道路の壁画
道路の壁画
日本人の墓地
共 同 墓 地
ホテルユーラシアで延泊
お菓子の容器を利用したパレット
美術館の中で親子絵画教室
美術館前
北海道拓殖銀行豊原支店を利用したサハリン美術館
一足早いクリスマスツリー
素晴らしい青空の中バスを待つ人たち
駅前のコンビニ
日曜日は車も少ない
美術館を覗けば親子の絵画教室が開かれている
日本では見かけない風景
二階の一室には北朝鮮の美術品が
展示されているのには驚いた
何と日本時代の遺品の中には仏壇まである
町外れにある共同墓地に
日本人のお墓のあることを知り
墓参に駆けつけた
ロシア語の堪能な小久保さんのお陰で
ホテルの日程変更は送信できたが
その結果は解りません
札幌からの国内便の変更も
札幌在住の学生時代の友人にお願いした
後は寝て待つばかり…友人とは有難いものだ
一日遅れのお陰で翌日は
青空が広がる好天気に恵まれた
後は明日の便が予定通りの
フライトを祈るばかり
片付けた荷物を解く気にもなれない
インターネット時代に入って
世界中のホテルの予約も簡単になったが
サハリンはまだまだ発展途上
一部のホテルを除いて
インターネットの使用は不可能だ
郵便局へ出向いてメールを
係員にお願いするしか方法がない
明日からの予定変更に
日本へ電話連絡を取るが
なかなか電話が繋がらない
5年間の島めぐりの中で
往復とも日程変更は初めてのことだ
ロシアでの個人旅行は
まだまだ思うように行かない
翌日からの全ての予定変更の手配に
数時間を要した
帰り支度も整い寛いでいる所に
不吉な予感がする電話のベルが鳴る
「飛行機は欠航」と連絡が入る
プロペラ機からボーイング737に
変わった途端に遅れや欠航が目立つと
現地日本人は嘆く
親父の墓参りでもした様な
すっきりとした気分になり
日本料理店で最後の昼食を楽しんだ
屋台のピロシキや蒸しパンも旨かったが
日本料理に勝るもんはおまへんなぁ……
ハプニング
丹頂鶴のスライドショー
釧路の丹頂鶴
ツララが下がる
ティモフスクの駅
釣った魚は今夜のおかずに
川に穴を開け釣りをする筆者
少数民族「ニビヒ」の子供
更衣室にカラフルなコートが並ぶ
教室内
生徒数21名
女子トイレの絵
男子トイレの絵
子供たちが書いた絵
チュルウンベデ村
キングサーモンは脂の乗りが最高
ボルシチ
筆者
リージラマナブナ
小鉄
小鉄のひとり言
白一色の中に綿帽子を被ったような雪景色には感動しました
思っていた寒さも防寒着と防寒靴のお陰でそれ程でもなく,マイナス20℃の雪道の散歩を楽しんだ。サハリンの旅は何もかもが初体験でした。
スパスィーバー ありがとう
2007年11月24日~12月5日 旅の鉄人 池内嘉正
商社に働く日本人は,この島は
利権に絡むと許可書一枚ですら
「コネと金」次第と……
何処の国にも良く似た事があるもんだ。
勝手が違う島めぐりは
多くのロシア人に出会えたのも
同行の小久保さんのお陰と感謝
無事千歳空港に到着した途端
身体の力が抜けてきた
凍りついた川に穴を開けて
釣り人は素手で魚を手掴みにしている
魚は入れ食い状態
通り掛りの私たちに惜しげもなく
持って帰れと……
まるで皆が知人のようである
サハリンの人たちは極寒の自然と
闘いながらも生活を楽しんでいる
少数民族は助け合いながら
生きているが過疎化が進んでいる
ぶっきらぼうに見えるロシア人も
付き合ってみると人がいい
島と言えば「南の島」を想像するが
極寒の島も癖になりそう
マイナス20℃~30℃の雪道を歩いていると
いつしかそれが当たり前のようになってくる
真っ白いパウダー状の雪は
町全体が綿帽子を被っているようで
その美しさに寒さも忘れてしまう
雪の表面は光を受けてキラキラと輝いている
日本時代のサハリンは遠い昔のこと
サハリンの地図には
北方四島とひとつの地図になっている
千島列島をクリル諸島と呼ばれているが
国後島とサハリン間は周一便のフライトがある
サハリンから北方四島へ訪れるルートは
可能であるが日露返還問題で
政治的な問題が絡んでいる
夏の北方四島のアドベンチャーへは
是非訪れたいと血が騒いできた
村の小学校の生徒数は21人,
色とりどりの帽子に洒落た上着
少数民族の「ニビヒ」の子供は
ハニカミ屋さんが多い
子供たちは礼儀正しく何処の学校でも
教室に入ると全員「起立」をして
私たちに挨拶
普段の飾らない姿で写真撮影をお願いする
家庭料理のもてなしは
「ボルシチ」
(鶏肉とキャベツ・タマネギ・赤カブ)
冷たくなってもその味は
今も舌の記憶に残っている
ロシア料理とも思えない
あっさりとした味は私の好みにピッタリ
小鉄も美味しいと残さず頂いた
お土産のサーモンの燻製は
臭いが強すぎるので遠慮しておいた
「村の人口は?」「知りません」
早速村の資料室へ電話
村役場の返事は「285人」
この村では元気な内は
何かの仕事について働いている
人生の楽しみ方はロシア人に軍パイを上げる
各家庭では突然の来客にも
好意的に歓迎してくれる
この村へは日本からの観光客は皆無と言うが
白銀の世界に子供たちの笑顔がまぶしい
一時間遅れで機上の人となり胸を撫で下ろす
全てが初めて尽くしのサハリンの旅
ジープで雪道を走って少数民族の村を訪れ
知人宅で食事をご馳走そうになる
チュルウンベデ村の
リージ・ラマナブナ(65)宅は
綺麗に整頓され清潔な室内であるが
トイレとシャワーは学校の施設を
利用しなければならない
サハリン空港の国際線は国内線の隣の小さな建物
「モスクワ-サハリン」は一日二便も飛ぶが
「札幌―サハリン」は周一便
プロペラ機からボーイング737に
変わって遅れや欠航が多くなったとか……。
たった一機で
「ソウル-札幌―サハリン-函館」を
飛び回っている
もう一機は修理中,回復は12月中ごろと言葉を濁す
ロシア国内では航空機事故は良くあるとか物騒な話
追 折角北海道まで来たのだからチョッと寄り道して釧路の丹頂鶴の撮影を楽しんだ
午前6時太陽が顔を出し空がオレンジ色に輝く中で
鶴の吐く息が白く霧のように見える瞬間のシャターチャンスを狙う
この写真がなかなか撮れない
マイナス8度サハリンより暖かいがジッと鶴の飛来を待っているのは辛い
しかしまだかまだかと期待で胸が膨らむ
白と黒の姿にうっとりと見とれる いつ見ても美しい丹頂鶴
「丹頂鶴お知りは何色?」「もちろん黒」「ブゥ-」
「白でした」羽の先は黒でお尻は白
エピローグ
::プロフィール
●1939年生・大阪出身。ゴルフジャーナリスト JGJA会員
●1966年 世界一周60日間 市場調査と営業に出張
ゴルフ歴62年
●2014年6月 右足人工股関節手術後エージシュートにチャレンジ
●2016年8月12日エージシュート達成 術後763日目
ゴルフ場 北海道 グレート旭川カントリー倶楽部
スコア74(37・37)・年齢76歳と327日・2024年現在に至る
●2014年8月より5月―10月旭川へ移住
●1997年会社経営を社員に継承 パームスプリングスへゴルフ留学 2ヶ月で挫折
●1999年に日本の島60島取材
●2000年日本の島再発見出版 日本作家協会会員
●2002年北極点踏破 日本旅のペンクラブ会員
日本旅行写真家協会正会員
●2003年―2009年 地球の島巡り70島踏破(旅は全て夫婦同伴)
●2009年12月16日 南極点踏破
●2010年 地球の島巡り出版
●2015年5月よりトリプルレジデンス継続中5月中〜10月中(東神楽居住)
1月中〜2月末(沖縄・石垣島居住)年末年始・春・秋(大阪現住所に居住)
●2022年 離島の食を求め ご島地グルメの取材開始(一島目 島根県隠岐の島)
●2023年 株式会社アイナック創業49年 取締役会長に再就任 生涯現役を目標
●2024年現在ご島地グルメ挑戦中(離島の旬の食を求め取材旅行)
一般社団法人 離島振興地方創生協会 賛助会員・NPO法人大阪USクラブ会員
現在、
フリーの経営カウンセラー。
2000年「哀愁フェリー」、2006年「佐渡航路」で日本有線大賞有線音楽賞を受賞。
2008年 悪性リンパ腫を発症。復帰後は悪性リンパ腫の啓蒙の「ライムグリーン・リボン」支援活動を始め、現在も続けている。2013年 キルギス共和国22周年独立記念コンサートで観客約5万人を前に「風の旅人」を発表をし歓声を浴び、キルギスの情報文化大臣から感謝状が贈られた。